『プロサッカー選手から経営者へモデルチェンジ』

脇阪 諭
香川県倫理法人会 会員
株式会社 ノバス 代表取締役

プロフィール

1984年 鹿児島県指宿市出身
      鹿児島城西高校・鹿屋体育大学 卒業
2007年 カマタマーレ讃岐 入団
2007年・2008年・2009年 リーグ得点王
2010年 JFLリーグ昇格に貢献し、退団
2015年 株式会社ノバス設立

レポート

本年7月に高松市倫理法人会入会。

       
鹿児島県指宿市で育つ。
家族構成は、両親と姉2人と私、妹の4人姉弟です。両親は、私が10歳の時に解散
(離婚)しました。私は、4歳の時からサッカーを始めて小学校・中学校とのめり込み、続けていました。


将来の夢は、「プロサッカー選手」と、意識してサッカーをしていました。
高校は、鹿児島城西高校に特待生として入学しました。
高校は専門性を重視した学校で、私は普通科(体育コース・芸術文化コース)、他に商業科、福祉科、調理科、服飾デザイン科、国際科、エステ科、等々専門学校
の集まりのような学校でした。

 

午前中は授業、お昼からサッカーの練習漬けの毎日を送っていました。高校生の時に全国大会にも出場。高校3年の時、プロに行くか大学に行くか進路に悩み、日本で唯一の国立体育大学(鹿屋体育大学)に進学しました。大学は敷地も広く、寮も完備されていてスポーツをするには最高の環境でした。大学時代には、保健体育の教員免許も取ることができ、人の体(解剖学、運動生理学)について学ぶ事ができました。

 

大学4年の時、就職をするのか、このままサッカーを続けるのか、悩んだ時期に丁度ケガをしてしまいました。その時、何かやり切っていない思いからサッカーを選択し、先輩もいたので香川のクラブ(カマタマーレ讃岐)を選択しやってまいりました。(初めて香川に来た時、うどん屋のはしごにつき合わされて驚く。)

 

私が入団した当時は、カマタマーレ讃岐はNPOでした。練習グランドも芝生ではなく、まだ整備されていませんでした。やがて、2年目に入るとNPO法人から株式会社に変わりました。環境も少しずつ良くなっていきました。2007年から2010年までカマタマーレにいましたが、最後の年は日本一を2回獲得し、JFLに昇格できました。                           
                           
当時、給与面では苦労をしました。
クラブの3/4のメンバーはダブルワークをしないといけませんでした。   
私は、古馬場でラウンジのウェイター(黒服)をしていました。
その仕事は5年間ほどしましたが、ケガをしても休まず苦しみながら続けました。


そして、ついにカマタマ-レを退団し、セカンドキャリアを目指すも迷走が始
まりました。親しかった人も離れていき戸惑いました。そんな時寄ってくる人もいました。そこで失敗もし、人が信じれなくなってしまうこともありました。
そんな状況で助けとなったのは、黒服時代にお客様(経営者の方々)から経営のお話を聴かせて(盗み聞き)頂き、その後の生き方・決断の参考とさせて頂いた。 

      
2年半の迷走中に、TVで‘情熱大陸’を観る。本田直行さんと安藤美冬さん。
この方々はパソコン一つで仕事ができる方々なので日本とハワイを行き来する仕事をされている。本田さんが『これからの時代は、個が輝く時代が必ずやってくる』と言われた言葉が腑に落ちて自身の進路をより真剣に考え、取り組むようになる。


辿り着いたのが、‘パーソナルトレーナー’という仕事。
お客様に対して「運動」を提供する。       
今回声をかけてくれた方々応援してくれた方々のお陰で、起業することができました。現在、起業して1年半。自分はうまく経営者へモデルチェンジできましたが、セカンドキャリアで悩む仲間の手助けができたらと思ってます。

                           
会長談

スポーツの世界でやり切った人生を一度経験されたというのは凄いです。
そして、ダブルワークを経験されたからこそ、今の成功があると思います。
今回、脇阪さんが運動を提供されている坂出の間埼さんが4~5カ月で別人の容姿(20kg減)でモデル体形になられていたのに驚きました。素晴らしいお仕事ですね。ご講話、ありがとうございました。
                           
モーニングセミナー参加者:30社、30名でした。ありがとうございました。